〜介護を経験して〜
信頼関係ができ二人とも穏やか

祖父母と義母を看取り、今は義父を介護する元CMクイーンの高橋里華さん。その道のりは決して平坦ではありませんでした。その介護について、お話を伺いました。
◇インタビュー◇ タレント 高橋 里華 氏

最初の介護は、とにかくがむしゃらにやっていた

 私の介護の始まりは34歳のとき。自分の祖父母の介護でした。東京の自宅から埼玉県の上尾まで、多いときには週に5日、車で通っていました。妹と一緒にやっていましたが、行った日は泊まり込みでしたから、主人の食べるものを作り置きして、冷蔵庫に入れておくというような生活でした。当時、新婚だったんですけどね。
 祖母は重度の糖尿病で、食事の管理は大変でした。その上、自分では食事のコントロールができなくなっていたものですから、目を離した隙に好きなだけ食べてしまうため、気を抜くことができなかったんです。
 祖父は、直腸がんでした。本人が「坐骨神経痛だ」と言い張っていたので気付けなかったのですが、病院に行ったときには既に末期でした。
 祖父母の介護に関しては、「とにかくやらなきゃ」という気持ちが強くて、やり方もよく分からずに、がむしゃらにやっていた感じです。次から次へとトラブルを起こしてくれて、謝りに回ったこともあります。あの時はその場から逃げ出したい気持ちが強かったですね。
 その5年後に主人の両親と同居を始めます。私の子どもたちは「ばあば」「じいじ」と呼んで懐いていましたし、二人もすごくかわいがってくれていたので、子どもたちにも良いことだと思い、義父母との同居を決めたんです。
 そのとき、既に祖父は亡くなっていましたが、祖母は存命で、埼玉への通いの介護は続いていました。義父母の方は、病院の送り迎えと、ヘルパーさんができない部分の食事の世話くらいで、まだ本格的な介護は始まっていませんでした。

祖父母には、もっとやれることがあったと思っている 

 義父母の介護の話の前に、祖父母の介護から学んだことをお話ししておこうと思います。
 祖父母の介護については、「私にもっと知識があったら」とか、「もっとやれることがあったんじゃないか」と、後悔する部分も残っています。例えば、祖母は82歳になって足を切断しなければならなくなったのですが、私が糖尿病について深く理解していれば、そこまで悪化させることはなかっただろうと思っています。祖父に対しても、死期を宣告されたときにどうすればよいのかまったく考えていませんでしたし、治療方法にしても、もっといろいろ選択できたんじゃないかと思うんです。
 そして、これまでで一番辛かったのが、祖父が自分で死のうとしたとき。夜中の2時過ぎ、何かとても嫌な予感がして祖父の部屋に行くと、祖父が小型ナイフのようなものを持って、じっとしていたのです。あのときのことは、今思い返してもすごく辛いです。ただ、こうした経験をしたおかげで、命の尊さを噛みしめることができています。
 今介護している義父もよく「死にたい」と言いますが、「絶対に自分で死なないで。じいじには孫もいるでしょ」と、思っています。

何回も何回も同じことを大声で言わなきゃいけない

 義父母との関係は、同居を始めてから1年くらい、しっくりいっていませんでした。今思えば、私の方から壁を作っていた部分もありました。子育てと介護の両立に疲れ、子どもを連れて妹の家に逃げ出したこともあります。しかし、このままではよくない、義父母のことをちゃんと理解しようと考え、料理が上手な義母に出汁の取り方を習ったり、掃除の好きな義父に掃除道具について教わったりと、歩み寄ることを始めました。そこから二人とはうまくいくようになり、「やっていけるかな」と思えるようになったのです。あのまま厳しい要介護状態になっていたら、どうなっていたことでしょう。
 祖母を看取った経験も、思わぬかたちで私にアドバイスを残してくれました。祖母は、病状が悪化して透析ができなくなり、最期まで本当に苦しみました。実は、義母も透析患者で、祖母の最後の様子を聞きたがりました。正直に話をしたら、義母から「里華さん、お願いだから管とかは絶対に付けないで」と頼むのです。義母の最期のとき、私は頼まれた通りにし、酸素マスクも付けさせませんでした。最後まで意識はあって、気丈に、声にならない声で「ありがとう」と言って、義母は亡くなりました。その一言のおかげで、悔いなく見送れたと思っています。
 その後、義父の物忘れが次第にひどくなり、言い争う場面も増えていきます。ケアマネジャーと相談し、病院に義父を連れていきました。レビー小体型認知症でした。
 何回も何回も大声で同じことを言わなきゃいけない。毎日毎日同じことの繰り返し。でも、イライラやストレスが溜まっていくだけなら、まだマシです。ある日、外出から戻ってくると、向かいの家の人から、義父が知らない人を自宅に入れようとしていたと、聞かされました。家には子どももいます。このままでは大変なことになると、心底思いました。
 目を離せなくなると、気安く外出できませんし、子どもと公園で遊ぶこともできないのです。小学校や幼稚園の行事に行っても、義父はもう電話も使えなくなっていたので、心配で心配でなりません。本当に、自分があと何人もいてくれたらなと思っていました。

試行錯誤を積み重ねて義父と信頼関係が築けた

 義父の介護は、もう9年目になります。なぜやってこられたかという決定打は、特にありません。使命感みたいなものも感じていますし、子どもがいてくれたのも大きい。子どもは、今も義父のことが大好きです。ケアマネジャーとも長い付き合いで、すっかり頼りにしています。自分なりのストレス発散方法も、工夫して見つけました。介護サービスも使っています。わずかな時間でも、解放される時間を持てるのは、本当に嬉しい。同じ介護で苦労している人に出会うのも、励まされます。
 ——こうして改めて振り返ると、義父の介護は、試行錯誤の繰り返しだったとつくづく感じます。でも、その積み重ねがあったことで、今では義父も私のことをとても信頼してくれるようになり、落ち着いた関係を作れています。義父のことを一日中見ていて、「ああ、本人もきっとこうなりたくてなったわけじゃないんだよなあ」という気持ちが、自然と湧いてくるようにもなりました。
 ただ、この先、義父の状態がどうなっていくのか……。私のことも孫のことも、今は分かっていますが。
 2018年4月、都道府県民共済シンポジウムでご一緒させていただいた永島さんから、素敵な話をお聞きしました。「認知症の人は嘘はつかない。失ったものがある分、敏感になっているけど、気持ちは通じる」のだそうです。だから、義父が本当に何も分からなくなったとしても、また信頼関係を作ればいいんだって、そう思っています。一度できたんだから、きっともう一度できますよ。

1987年、「全日本国民的美少女コンテスト」で入賞。15歳で芸能界デビュー。1990年代にはTVドラマのほか、約60本ものCMに出演して人気を博す。その後、パーソナリティー、コメンテーター、モデルなど、活動の幅を広げる。現在は2児の子育てと介護を両立した生活を送っており、そのライフスタイルが注目を集めている。

※記事内容は、執筆時点2019年8月1日のものです。